読書感想「動物農場〔新訳版〕 」
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わたしの読書カテゴリの中では,「23分間の奇跡 」や「茶色の朝」につながる。自分の研究分野の本を読んでいたら,この本のことが書かれており,気になって気になって即購入,即読了。 著者である「ジョージ・オーウェル 」という方は何度か耳にしたことがあったが,この方が書かれた本を初めて読んだ。近いうちに,ぜひ,もう一つの代表作「1984」を読んでみたい。 【参照】
「23分間の奇跡 」では子どもを相手に強制ではなく自らが価値観を変えていくように働きかける洗脳授業に見えたり,「茶色の朝」ではナチスを想定させるような独裁国家に変わっていく社会の姿を描いていたりするが,この「動物農場」はいわばソビエト連邦設立批判というか,スターリン批判というか,社会主義国家批判をその当時に生きている「ジョージ・オーウェル 」が書いている。そこがすごい。 以下,ネタバレを含みます。
これから読みたいと思っている人は読まないようにね。
飲んだくれの農場主ジョーンズを追い出した動物たちは,すべての動物は平等という理想を実現した「動物農場」を設立する。
さまざまな動物たちが擬人化され,この物語の主人公というところがミソだ。これで,風刺化されて,少しは思想的な解釈,政治的な解釈から免れることをねらっている(いた?)のだろう。
その後,動物原理7つの戒律(七戒)が発表される。
四本足はよい,二本足は悪い
二本足で立つ者はすべて敵。
四本足で立つか,翼がある者は友。
すべての動物は服を着てはいけない。
すべての動物はベッドで寝てはいけない。
すべての動物は酒を飲んではいけない。
すべての動物は他のどんな動物も殺してはいけない。
すべての動物は平等である。
このエピソードがさまざまな出来事が重なり,特権階級のブタに以下のように改変される。
四本足はよい,二本足はもっとよい
すべての動物は,シーツのあるベッドで寝てはいけない。
すべての動物は酒を過剰に飲んではいけない。
すべての動物は他のどんな動物も理由なしに殺してはいけない。
つまりは,ベッドで寝るのはブタだし,酒を飲むのもブタだし,ある理由により動物を殺すよう命ずるのもブタなわけだ。
「平等」という理想から程遠い,「特権(階級)」ができてしまう。
最後に,7つの戒律がなくなり,以下の表現になっていくプロセスが興味深い。
すべての動物は平等である。
だが一部の動物は他よりももっと平等である。
これは,指導者となるブタが賢かった(他の動物から見れば,悪知恵が働いた)といえなくもない。ただし,最初は「すべての動物は平等」という理念から始まり,最初の最初はそのようなところから出発したわけで,その都度都度の分岐点(つまり,つっこみどころであり,疑問をはさむ余地)があるといえばあった。
それを見過ごしてしまったのは,ブタ以外の動物たちの「知識の無さ」「学ぼうとする意欲の低さ」「当事者感の欠如」が原因なのかなと思う。
そして,悲しいことにこれらに拍車をかけてしまっているのが他の動物たちから多くの信頼を得ている(ブタ以外の)「バカ真面目な動物」や「バカ正直な動物」である。
ちょっとした理不尽な,または自分にとって違和感のある振る舞いをブタが行なったとして,自分が感じた違和感が正しいものかどうかを判断するのに,ブタ以外の動物,つまりは「バカ真面目な動物」や「バカ正直な動物」に判断を求める。しかし,これら「バカ真面目な動物」や「バカ正直な動物」は指導者であるブタを批判的(クリティカル)に見ることなしに信用して生活するがゆえに,他の動物たちは自分たちが信頼している「バカ真面目な動物」や「バカ正直な動物」がブタを信用しているのだから自分が違和感を感じてもそれについていこうとする……わけだ。
また,最初から「七戒」がどんどん書き換えられていることがわかっている動物(文字をしっかり読めつつ,記憶もある動物)もいたということが物語後半で明かされるが,この動物は知っているだけでそれを知らせないし,もちろん,それをもとに何かの行動に走ったりもしない。
私自身に物語を当てると,たぶん「バカ真面目な動物」や「バカ正直な動物」になる。
自分で言うのも何だが,真面目であること,正直であること,「だけ」が自分の取り柄と感じているからだ。
でも,それだけじゃいけないともずっとずっと思ってはいる。
この一歩は,勇気が必要だよね。そしてそして,まだまだ自分は当事者じゃないという感覚も一方にあるんだよね……。
この物語は,翻訳者で解説の山形浩生さんが書かれているとおり,確実に当時のソビエト社会主義の設立状況を描いているのだろう。しかし,こうした「管理するもの」と「されるもの」,「指導するもの」と「されるもの」という関係には必ず存在するものだ。身近なものとして考えていきたい。